もうひとつの二・二六事件

史跡を訪ねて

昭和11年2月26日、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠するという事件が起こりました。

いわゆる「二・二六事件」です。

この日、東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件が起きていました。

すなわち、河野壽(こうのひさし)陸軍大尉以下8人が、別働隊(河野隊)として熱海・湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃したのです。

結果的に襲撃は失敗し、河野大尉は自決するのですが、自決の地となった熱海の陸軍病院跡には記念碑が建てられています。

案内板には以下のように説明されています。

河野寿大尉自決の地

 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。

 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。

 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。

 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。

 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。

 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。

 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。

 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)

平成25年9月 

本当の自決の地は現在のKKRホテルの敷地内にあり、石碑はそこから僅かに移転されていますが、目の前には河野大尉が最後に見たであろう熱海の海が一望できます。

昭和5年に昭和恐慌があり、当時の日本は最悪と言っていいほどのひどい経済状態でした。

農家が著しく困窮しているにも関わらず、政界と財界が癒着し政争を繰り返していることが時代背景としてありました。

憂国の念を抱いた先輩方の覚悟に恥じない生き方を私たちもしたいものです。

◆湯河原町/2・26事件の現場「光風荘」案内