二・二六事件慰霊像

史跡を訪ねて

東京都渋谷のNHKの真向かいに、二・二六事件慰霊像が立っています。

昭和11年に起きた二・二六事件では、陸軍将校16名が処刑(銃殺)されました。

その処刑の場所となったのが、東京陸軍刑務所で、事件の犠牲者と処刑者を弔って昭和40年2月26日に建立されたのでした。

1929年の世界恐慌、その翌年の昭和恐慌により、日本経済が荒廃し、特に農村が疲弊していたこの時代には、昭和5年の浜口首相狙撃事件、昭和6年の三月事件、昭和7年の血盟団事件と五・一五事件など、多くのテロや暗殺が横行しました。

当時の軍は天皇親政を目指した皇道派と官僚や政財界と結んで総力戦体制を整えることを目指した統制派が激しく対立していました。

国家社会主義を唱えた北一輝の思想は皇道派の青年将校たちに大きな影響を与え、彼らは、約1,500人の兵を従え、昭和維新を図ろうとします。

部隊は首相官邸、陸軍省、警視庁などを占拠し、この中で大蔵大臣の高橋是清や内大臣の斎藤実らが殺害されました。

陸軍上層部は、結局は海軍と共に鎮圧をし、青年将校たちのほとんどは投降しました。

しかしこの時、グループの中心的人物として事件を計画・指揮した磯部浅一一等主計は最後まで貫徹しようとしました。

首謀者とみなされた将校たち19人は上告なし、弁護人なし、非公開の特設軍法会議で死刑となりましたが、国家に反逆した者の遺骨はどの寺も引き取ることができず、彼らは二十二士之墓として東京都港区の賢崇寺に埋葬されました。

また、磯部浅一一等主計の墓は、南千住の回向院にあります。

ここは、慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された場所で、一般の方の墓地とは完全に離され、安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内、桜田門外の変の水戸浪士らが眠っています。

慰霊像には毎年2月26日にご遺族が集まり、慰霊祭が行われるそうです。

二・二六事件は、近現代最大のクーデター未遂事件などとされていますが、農村の疲弊により女子の身売りが社会問題となった当時の時代背景、軍人としての青年将校たちの思いなどに鑑みると、とてもそのような表現では汲み取れないものがあります。