はじめに――「さざなみ」と呼ばれた感染状況
2021年春、日本の新型コロナ新規陽性者数は欧米諸国と比べて桁違いに少なく、「さざなみ(波紋程度)」と形容されました。
これは当時、内閣官房参与だった経済学者・高橋洋一氏の発言に端を発し、国内感染の波を「小波」と位置づける言説として報じられています。
にもかかわらず、その後の日本社会はワクチン接種、行動制限、三密(密閉・密集・密接)回避といった――国際的に見ても厳格な――対策へと突き進みました。
果たして、その判断は本当に不可欠だったのでしょうか。
いま検証の俎上に載せるべき時期に来ています。
空気が義務へ変わったワクチン接種
「感染を防ぐ安全で有効な手段」として導入されたCOVID‑19ワクチンは、当初の宣伝と異なり、臨床試験が完全に終了しないまま緊急承認されました。
接種は任意とされながらも、ワクチンパスポートの導入、大学や企業による接種事実上の必須化、飲食・イベント会場での証明提示要求などが相次ぎ、「打たない自由」は急速に狭められました。
こうした制度的・社会的圧力のなかで、未接種者は就学・就労機会や社会参加を制限される事例も生じました。
“空気”は容易に義務へと姿を変え、個人の身体に対する自己決定権は後景に押しやられました。
専門家の変節と説明責任
最近になって、当時の政策推進の中心的人物である尾身茂氏がテレビ番組で「コロナワクチンに感染拡大を防ぐ効果はあまりなかった」「若い世代には打たないよう伝えてきた」と発言したことが報じられました。
しかし、2021〜2022年にかけて同氏は政府分科会会長としてワクチン接種を強く推奨し、「感染防止の切り札」と位置づけていた経緯があります。
この劇的な言説の変化に対し、整合性の説明も謝罪もないまま、発言だけが更新される状況は、専門家の社会的責任と倫理を根底から揺さぶるものです。
三密回避と社会的コスト
ワクチンだけでなく、政府は「三密を避けよ」と繰り返し呼びかけ、飲食・観光・文化イベントなど幅広い産業活動を制限しました。
結果として、中小事業者の倒産、学生の学習機会の損失、孤独死の増加など、健康被害とは別の社会的コストが積み上がりました。
「日本はさざなみだった」初期状況を踏まえれば、ここまでの一律的行動制限が必要だったのかという疑問はなお残ります。
三密回避の有効性と副作用を比較衡量する、より精緻な総括が不可欠です。
失われた人権と暗黒の記憶
これらの対策に伴って表面化したのは、地味だが深刻な人権侵害でした。
未接種者や行動制限に異議を唱える人びとは、メディアや社会から「非協力的」と烙印を押され、生活の場を奪われました。
公衆衛生という大義のもと、個人の尊厳は驚くほど容易に後回しにされたのです。
これを「暗黒の時代」と呼ぶのは大げさではありません。
なぜなら、自由と権利が”非常時”の名のもとに封じ込められたという事実が、短期間で社会全体から忘れ去られようとしているからです。
検証なき社会が抱える危うさ
厚生労働省が公開する副反応・死亡報告では、「因果関係不明」や「評価不能」と分類される事例が多数を占めています。
ところが、接種を推進した政府、専門家、メディアのいずれも、自らの判断や発言について十分に検証を受けていません。
ワクチンの感染予防効果、三密回避による健康・経済両面への影響、そして「さざなみ」状況下での過剰な対策の妥当性――これらを体系的に振り返らなければ、同じ構造的問題は形を変えて再発するでしょう。
おわりに――忘却は再発を招く
新型コロナ対策は、不確実性の高い状況で下された決定でした。
しかし、だからこそ、過去の政策とその結果を冷静に検証し、専門家や行政が説明責任を果たす仕組みを整えることが、次の危機への備えとなります。
ワクチン接種や三密回避が本当に不可欠だったのでしょうか。
感染が「さざなみ」にすぎなかった段階で、どのような別の選択肢があり得たのでしょうか。
これらの問いに向き合い、記憶を風化させない作業こそが、民主主義社会における公衆衛生政策の健全性を担保する第一歩です。