日本の食糧危機を救った「並河成資」の「水稲農林1号」

学術

日本人の主食は米ですが、米=稲は本来日本列島には自生していない熱帯性植物です。
そのため、昭和初期までは九州、四国が主な生産地でした。北陸、東北でも稲作は行われていましたが熱帯性植物にとっては寒く、おいしいお米を大量に生産するのは難しかったようです。当時、今では日本一の生産量を誇る新潟県のお米は「鶏またぎ」などと言われ、おいしくなかったようです。それに比べて安くておいしい台湾米にも押されていたのです。

昭和6年、新潟県農事試験場で並河成資(なみかわ なりしげ)らが中心となり、育成されたのが寒冷地用水稲である水稲農林1号でした。食味もよく多収量が可能で品種耐冷性を持っていたため、昭和9年の東北地方の冷害での被害が少なくて済みました。農家はもちろん市場にも歓迎され急速に普及し、昭和16年には北陸・東北を中心に17万ヘクタールにまで達し、10~20%の増収をもたらしました。さらに戦後の昭和21年~22年の食糧危機に際しては、多くの人を飢餓や栄養失調から救ったのです。

しかし、並河は、昭和12年、間近に迫った栄光の日をみることなく、突如自らの生命を絶っていました。享年41歳でした。

飢餓も遠のいた昭和24年になり、1枚のビラが北陸・長野の農家に配られました。「故並河成資氏のために、あなた方の水稲農林1号の一握りを」というものです。
このことは新聞やラジオを通じ全国民に伝えられ、並河を称えるドラマ・絵本・浪曲ができるほどになりました。

並河の生前は苦しい状況に追い込まれていたのですが、彼の没後、多くの日本人を救ったのです。その後、農林1号はさらに品種改良され、コシヒカリなどのブランド米となりましたが、現在でも少量ながら農林1号は販売されています。

生きているうちは報われなくても、その後の日本人を救った並河成資氏を忘れてはいけないと思いました。