移民問題は「比率」ではなく「人を活かす力」で考えるべきです
今日は、移民政策について考えてみたいと思います。
外国人労働者の受け入れをめぐっては、「比率を何%までにするか」という数字がしばしば議論の中心になります。
分かりやすい指標ではありますが、実際の労働・生活・経済活動は、行政区域や比率だけでは捉えきれません。
地元の静岡県西部を見ていても、そのことをよく感じます。
数字の議論に入る前に、そもそもこの問題をどう捉えるべきか、少し整理してみたいと思います。
はじめに――5%か10%か、という問題ではありません
移民問題を議論するとき、「外国人比率を5%までにする」「10%を超えると社会統合が難しくなる」といった数字は、とても分かりやすく感じられます。
しかし、現実の社会はそれほど単純ではありません。
外国人比率が5%なら安全で、10%なら危険なのでしょうか。
そもそも、その5%を誰が、どのように管理するのでしょう。
外国人夫婦に子どもが生まれたらどうなるのか。
外国人が増えなくても日本人人口が減れば比率は上がってしまいます。
市区町村ごとに上限を決めたとしても、隣の市へ引っ越して通勤すれば済んでしまいます。
静岡県西部を見ても、この問題はよく分かります。
外国人が多く住む菊川市から、掛川市、袋井市、浜松市などの工場へ働きに行くことは珍しくありません。
勤務地と居住地は一致していないのです。
住宅費や生活費、交通事情、知人や家族の存在などによって、住む場所は決まっていきます。
つまり、行政区域ごとの外国人比率だけを見ていても、実際の労働・生活・経済活動を捉えることはできません。
移民問題の本質は、「外国人を何%まで許容するか」という数字の問題ではないのだと思います。
本当に問うべきなのは、
- なぜ日本は外国人労働者を必要としているのか
- 日本社会はどれだけの人を受け入れ、活かし、共に社会を支える人財として迎えることができるのか
という問題ではないでしょうか。
「人手不足だから外国人」という発想を疑ってみます
現在、日本で外国人労働者が必要だと言われる最大の理由は、人手不足です。
確かに少子高齢化によって生産年齢人口は減少しています。
しかし、「人口が減った=外国人労働者が必要」と、そのまま直結させてよいのでしょうか。
日本社会の中には、まだ別の問題があるように思います。
それは、限られた労働力をどの仕事に配置しているか、という問題です。
製造業、建設、物流、農業、介護、食品加工などでは深刻な人手不足が続いています。
一方で、日本社会では管理、調整、報告、申請、会議、資料作成、コンプライアンス対応などの間接業務も大きく増えてきました。
もちろん、これらの仕事がすべて不要だというわけではありません。
しかし、直接物を作る人、運ぶ人、建てる人、育てる人、介護する人が不足する一方で、それを管理するための仕事が増え続けているのだとすれば、それは人口問題だけでなく、社会全体の労働力配分の問題でもあるはずです。
外国人労働者が多く入っているのは、まさにこの「直接労働」の現場です。
工場の組立、食品加工、農業、建設、物流、介護など、日本社会を実際に動かしている仕事です。
ここに、移民問題を考えるうえでの重要な入口があるように思います。
本当の人手不足は、何人なのでしょうか
政府や企業が「人手不足」と言うとき、その数字をそのまま外国人受入れ人数に置き換えてはいけないと思います。
例えば、ある産業で10万人不足しているとします。
しかし、その10万人の中には、
- 業務を簡素化すれば不要になる仕事
- デジタル化できる仕事
- ロボットや機械で代替できる仕事
- 不必要な規制や帳票によって生まれている仕事
- 賃金や労働条件を改善すれば日本人が就く可能性のある仕事
- 社内の人員配置を変えれば補える仕事
が含まれているかもしれません。
したがって、本当に調べるべきなのは、単なる求人倍率ではないはずです。
考える順番としては、
総労働需要 − 不要な仕事 − 自動化できる仕事 − 効率化できる仕事 − 国内人材を再配置できる仕事 = 本当に不足する労働力
となります。
この最後に残った部分こそ、外国人労働者を必要とする人数なのではないでしょうか。
外国人受入れ政策は、この計算の最後に置くべきものであって、最初に置くものではないと考えます。
外国人労働者を「安い労働力」にしてはいけません
移民政策でもう一つ重要なのは、外国人を単なる労働力として扱わないことです。
企業から見れば、一人の外国人労働者は「一人分の労働力」かもしれません。
しかし社会から見れば、その人は生活者です。
働き、住み、買い物をし、病院に行き、家族を持ち、子どもを学校へ通わせ、地域社会の一員となります。
つまり企業が一人の外国人を雇用することによって、住宅、教育、日本語教育、医療、行政窓口、通訳、地域交流など、さまざまな社会的需要が生まれます。
ところが、その利益と負担は必ずしも同じ場所に生じません。
例えば掛川市の企業で働きながら、住宅費などの事情から菊川市に住むということが起こり得ます。
この場合、労働力を利用するのは掛川の企業で、生活を支えるのは菊川の地域社会、という構造になります。
企業は労働力を得ますが、学校、日本語教育、行政窓口、地域コミュニティなどの負担は居住自治体が引き受けることになるのです。
これでは、制度として不均衡だと言わざるを得ません。
したがって外国人雇用政策を考えるなら、企業にも社会統合の費用を適切に負担してもらい、その財源を実際の居住地域へ還元する仕組みが必要だと思います。
外国人労働者を「安い人手」にしてしまえば、企業には省力化や賃上げをする動機が弱くなります。
それは長期的には、日本人にも外国人にも良い政策とは言えないでしょう。
管理するなら「人」ではなく「入口」を管理すべきです
市区町村ごとに外国人比率を5%にするという考え方には、行政上大きな問題があります。
外国人夫婦に子どもが生まれれば外国人数は増えます。
外国人が増えなくても日本人人口が減れば比率は上がります。
結婚する人もいれば、転職する人、別の町へ引っ越す人もいます。
外国人の生活を市町村境界の中に固定することはできません。
だからこそ、既に日本で生活している人を「比率」に合わせて動かそうとする政策は、現実的ではないのだと思います。
国が管理できるのは、むしろ入口です。
つまり、どの在留資格で、どの産業に、年間何人を受け入れるのか。
ここを管理すべきなのです。
例えば製造業で10万人の不足が予測されたとして、自動化によって3万人、業務改革によって2万人、国内人材の再配置によって2万人を補えるのであれば、外国人受入れは残り3万人でよいことになります。このように、必要人数を計算した結果として外国人受入れ人数を決めるべきではないでしょうか。
外国人比率は、その結果を監視する指標として使えばよいのだと思います。
5%、7%、10%といった数字は、絶対的な上限ではなく、「この地域では学校や住宅などへの負荷が急速に増えていないか」「特定地域への集中が起きていないか」を見る警戒指標として使う方が、現実的だと考えます。
移民問題は「人数」より「集中」と「速度」で考えます
同じ外国人比率5%でも、社会への影響は同じではありません。
町全体に均等に暮らしている5%と、一つの団地や学校区に外国人が30%集中している状態では、まったく違う話になります。
さらに、10年間かけてゆっくり5%になった地域と、2年間で1%から5%になった地域でも違います。社会には、人を受け入れるための時間が必要だからです。
住宅を整える。
日本語教育を整える。
学校を整える。
地域との交流を作る。
行政職員が対応方法を学ぶ。
外国人自身も日本の制度や生活習慣を学ぶ。
こうした社会統合には、どうしても時間がかかります。
したがって重要なのは、外国人比率、増加速度、地域集中度、在留資格、定住率、家族帯同、日本語能力、地域の受容能力を総合して見ることではないでしょうか。
外国人比率一つで、社会の状態を判断することはできないはずです。
日本人の働き方そのものを見直す必要があります
外国人政策を考えていくと、最終的には日本人自身の働き方の問題に行き着きます。
日本社会には、本当に必要なのか分からない仕事が少なくありません。
同じ数字を複数の部署へ入力する。
同じ書類を何度も作る。
承認のためだけに何段階もの決裁を回す。
会議のための資料を作り、その資料を説明する会議をする。
行政側でも企業側でも、こうした間接業務は積み重なっています。
AI、デジタル化、自動化は、単純に人間を機械へ置き換えるためだけに使うものではないはずです。
人間を、本当に人間が必要な仕事へ戻すために使うべきものだと思います。
現場で物を作る。
農作物を育てる。
人を介護する。
機械を修理する。
道路を造る。
子どもを教える。
新しい技術を開発する。
こうした仕事へ人を戻していく。
それでも人が不足する分野に、外国人の力を借りる。
この順番であれば、外国人労働者も日本人労働者も、互いに競争相手として見る必要がなくなるのではないでしょうか。
外国人を「労働力」から「人財」へ
移民問題には、もう一つ大切な視点があります。
日本に来る外国人を、単なる不足分の労働力として見てはいけないということです。
外国人の中にも、高い技術を持つ人、ものづくりに向いている人、農業を得意とする人、日本で長く生活したい人、日本語や日本文化を学ぼうとする人など、さまざまな人がいます。
そうした人が日本社会の中で能力を発揮できれば、それは日本にとって大きな国力になるはずです。
日本人も同じだと思います。
人を単なる「労働人口」という数字として見るから、「あと100万人足りない」という発想になってしまいます。
しかし本来、一人ひとりは、知識、技能、経験、創造力、地域とのつながりを持った人財です。
優れた国家政策とは、人を大量に投入することではなく、一人の人間が持っている能力を、どれだけ社会の中で活かせるかを考えることではないでしょうか。
移民政策は、国家の人財政策です
ここまで考えると、移民政策を「外国人政策」だけで作ってはいけないことが分かってきます。
必要なのは、人口政策、産業政策、労働政策、教育政策、自動化政策、行政改革、地域政策、外国人政策を一体化した人財政策なのだと思います。
その流れは、
日本に必要な仕事を確認する → 不要な仕事を減らす → 自動化・省力化する → 日本人の人財を再配置する → 賃金・労働条件を改善する → それでも不足する人数を算出する → 必要な外国人を受け入れる → 日本語・技能・生活支援を行う → 地域社会の一員として能力を発揮してもらう
という順番になるはずです。
これは「移民を増やす政策」でも、「外国人を排除する政策」でもありません。
日本という国家が、人を最も大切な資源として扱う政策なのだと考えます。
おわりに――国力とは、人を活かす力です
人口減少時代の日本にとって、人はこれまで以上に貴重になっていきます。
だからこそ、日本人も外国人も「人数」として消費してはいけないのだと思います。
人手不足だから外国人を入れる。
外国人が増えたから5%で止める。
この二つは、一見反対方向のように見えて、実は同じ発想に立っています。
どちらも、人を数字として見てしまっているからです。
本当に考えるべきなのは、この国に暮らす一人ひとりの能力をどう引き出し、国力につなげるか、ということではないでしょうか。
日本人の働き方を見直す。
不要な間接業務を減らす。
技術で人を単純作業から解放する。
直接的に社会を支える仕事を正当に評価する。
それでも不足する部分について、必要な外国人を計画的に受け入れる。
そして来日した人には、日本社会を理解してもらい、その能力を十分に発揮してもらう。
そのために企業も行政も地域社会も、責任を分担していく必要があります。
そこまで設計して初めて、移民政策と呼べるのではないかと思います。
移民問題の本質は、外国人が何%いるかではありません。
日本という国が、人という最も大切な財産を、どれだけ大切にし、育て、適切な場所で活かすことができるか、ということなのだと思います。
人口減少時代に問われているのは、外国人を受け入れる能力だけではありません。
日本自身の「人を活かす力」なのではないでしょうか。

