氏制度と伎倍人 (きべひと)〜日本の國軆(こくたい)を支えた絡合(らくごう)の歴史〜

伝承・伝統・文化

歴史上、日本は氏を中心として社会構造が形作られてきました。農耕・工芸・狩猟に長けた氏族が、それぞれの役割を担いながら独立した共同体を築き、これらが絡み合うことで日本という国が形成されてきました。この絡合(らくごう)が、日本の國軆(国柄、国のあり方、国家の根本体制)の根幹を成し、現在に至るまで日本の文化と価値観を支えているのです。

伎倍人(伎倍:静岡県浜松市浜北区の地名)と日本の基盤

浜北区に根付いた伎倍人は、古代において高度な技術を持ち、農耕や工芸に秀でた集団でした。万葉集にも伎倍人に関連する歌が四首も残されており、彼らが地域社会の発展に貢献したことがうかがえます。
伎倍人を含む氏族は、単なる労働集団ではなく、信仰・技術・生活のすべてを支える共同体でした。彼らは自らの土地を耕し、道具を作り、自然と調和しながら生きることで、日本独自の國軆を築いていきました。

子を宝とする価値観

「銀も黄金も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」(山上憶良)
この万葉集の名歌は、日本の國軆を象徴する価値観を示しています。

この歌は「どんなに貴重な銀や黄金があろうとも、それよりも子供こそがかけがえのない宝である」 という意味を持っています。これは氏制度においても極めて重要な思想でした。氏族は血縁を中心に成り立ち、子を大切に育て、次世代へと文化や技術を継承することが社会の基盤とされていたのです。

これは単なる家族愛ではありません。國軆そのものを支える思想です。子を大切にし、教育し、次代へと繋ぐことこそが、国を守り発展させる鍵だったのです。

氏制度の絡合(らくごう)と國軆

氏制度は、氏神を祀り、名主を形成し、社会を統治する仕組みとして発展していきました。これは単なる血縁集団ではなく、技術・職能・信仰が結びついた共同体の集合体でした。

この氏族の中と氏族同士の関係性こそが絡合(らくごう)です。異なる氏が絡み合いながら、農耕・工芸・狩猟・信仰などの役割を分担し、互いに支え合うことで、単一の中央集権国家ではなく、多様性を内包した国として発展していきました。これは征服型の国家形成とは異なるもので、世界で最も長い歴史を持つ国である日本独自の統治体系を生み出すことになっていきました。

氏制度の変遷と苗字への移行

古代日本における氏制度は、中央集権化が進むにつれ変化していきました。律令制の確立とともに、氏族ごとの役割が明確化され、藤原氏のように政権中枢に食い込む氏も現れました。

ところが明治維新後、氏制度は法的に廃止され、苗字制度へと移行してしまいました。

 1871年(明治4年) 「氏の廃止令」により、公的な氏制度が廃止

 1875年(明治8年) 「苗字必称義務令」により、すべての国民が苗字を持つことが義務化

 1898年(明治31年) 明治民法による家制度の確立

この結果、古代から職能や血統を表す集団だった「氏」が、明治維新以降の近代では「苗字」が家族ごとの識別として定着しました。さらに戦後の民法改正により家制度も廃止され、現在は個人単位の戸籍制度が運用されることになっています。

近代における絡合(らくごう)の復活

氏制度は法的には廃止されてしまいましたが、絡合(らくごう)の概念は日本社会に生き続けています。例えば、地域の自治組織、伝統産業の継承、さらには政治・経済においても、かつての氏の影響がまだ色濃く残っています。

また、日本の國軆を再考するうえで、子を宝とする価値観の再確認が重要です。現代社会では少子化が進み、子供を産み育てることの価値が希薄になってきていますが、かつての日本では「子こそが国の未来であり、最も大切な宝である」という考えがありました。この思想を見直すことが、絡合(らくごう)を再構築し、日本の國軆を強くする鍵となります。

〜日本の國軆を守るために〜

日本は、氏族の絡合(らくごう)によって形成された独自の國軆を持ち、自然と調和しながら発展してきた国です。その根幹には、伎倍人のような地域ごとの独立性と、子を宝とする価値観がありました。

現代において、国際情勢の変化や社会構造の変容が進む中で、日本の本質である絡合(らくごう)と子を大切にする思想を再認識し、次世代へと繋ぐことが求められています。

繰り返しになりますが「絡合(らくごう)」と「子を宝とする価値観」を取り戻すことこそが、日本の國軆を未来へと継承する鍵なのです。