凧揚げの歴史を振り返る

伝承・伝統・文化

まもなく(5月3日~5日)、静岡県で最も「有名」なまつりとされる浜松まつりが開催されます。浜松まつりといえば、大凧の凧揚げ合戦が有名です。 そこで、凧揚げの歴史を振り返ってみました。

浜松まつり凧揚げ合戦

浜松まつりの凧揚げの起源は、今から450余年前の戦国時代、永禄年間(1558~1569年)、この浜松を治めていた引馬城主飯尾豊前守に長子義廣公が誕生したときのことでした。 殿様の跡継ぎ誕生をお祝いしようと、入野村の住人、佐橋甚五郎の進言によって義廣公の名前を凧に記して城中高く揚げたのが始まりと言い伝えられています。

一方、一般的に凧揚げというと正月の子供の遊び、レジャーという印象がありますが、凧の歴史を調べてみるとはじめからそうだったわけではありません。

凧が日本に伝わったのは平安時代といわれており、凧は豊作の吉凶を占う祭典行事の大事な道具のひとつとして利用されました。
戦国時代になると、軍事目的で活用されるようになります。遠くから視認できるというのを利用したのです。
江戸時代になると、今度は広告宣伝の道具として使われるようになります。
白い凧にいろいろな店の屋号や主家の家紋が描かれ、商人たちは、こぞってこの宣伝凧を揚げたのです。そのため空は凧で混雑することもありました。しかし、凧同士が喧嘩しながら、強さを競い合うのを庶民は楽しみ、やがて、″喧嘩凧″と呼ばれるようになります。いつまでも風に乗って空に揚がっていれば最高の店の宣伝になるため、当時の商家の主人は、奉公にきている子どもが凧揚げに興じていても、文句をいいませんでした。これが凧揚げ合戦の起源のようです。
また、子供の健康を祈るためにも凧揚げが行われ、一部地域では男子の出生を祝うために巨大な凧を揚げる習慣が全国に広がりました。もっともその呼び名はさまざまでした。凧(たこ)というのは関東の方言だったようで、西日本では「いか」と呼んでいたところもありました。
明治時代になると、子どもたちはどこまで凧が高く揚がるのかを競い合い、凧の形状や絵柄の格好よさを競い合うようになり、現代の一般的なイメージの凧揚げが始まります。

別の使い方としては、大麦の生育を促進するための「麦踏み」に用いられた例があります。
甲斐(現在の山梨県)では、二月から三月にかけて畑で凧揚げをしてもよいといわれていたそうです。凧揚げで子どもたちに走りまわらせておけば、遊びながら根張りを良くし、過繁茂を抑制し、凍霜害を軽減ができたというわけです。

このように長い間、凧は日本の暮らしに密着してきました。
あるときは祭典に、あるときは戦に、あるときは店の宣伝に、麦踏みに、そして子どもの遊び道具として、さまざまな用途で利用され活躍してきたのです。