「和を以て貴しとなす」の真意

伝承・伝統・文化

「和を以て貴しとなす」は日本人に広く知られている言葉です。
これはおよそ1400年前の飛鳥時代、聖徳太子が31歳の時に定めた「十七条の憲法」の第1条に書かれているもので、その「十七条の憲法」は「日本書紀」に記されています。(余談ですが、イスラム教を創始したムハンマドと同じ時代です)

一時期「日本書紀」自体の信ぴょう性から疑われたこともありましたが、様々な証拠から聖徳太子が作ったもので間違いないだろうとされるようになりました。
現代では「和を以て貴しとなす」意味を「とにかく角を立てないでみんな仲よくするのが一番大切」ととらえられている場合が多いようですが、それは誤った理解です。

第1条

平安時代、十七条の憲法の写本が出されたのですが、「和を以て貴しと」を「やわらぐをもってとうとしと」としています。そして「爲し忤ふること無きを宗と爲す」と続き、つなげると「和らぐをもって貴しと爲し忤ふること無きを宗と爲す」となります。
これは「いら立っていた気持ちを穏やかにして、相手を貶めないことが最も重要である」と解釈できます。

その先を読んでいくと、「人はえてして派閥や党はなどを作りやすい。それでは偏った頑なな見方にこだわり、他と対立を深めることになってしまう。それではいけない。」と派閥的な偏見を戒め、「偏った考えと頑なな態度による対立を避け、互いに和らぎ話し合いをして、合意を得ればそれはおのずから道理にかなうので何事も成就する」と書かれています。
ただ仲良くするのではなく、道理を正しく見出すために党派や派閥のこだわりを捨てるべきだと教えてくれているのだと思います。

第17条

第1条は第17条「夫れ事は獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし…」に対応しています。
「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである。多くの人々と話し合い是非を検討すれば、道理にかなったやり方を見出すことができる。」という内容です。

組み合わせて考えると「重大事の決定には独断を避け、人々と議論するにしても各人が党派、派閥にこだわっていていては対立が深まるばかりで道理には到達できない。したがって、重大事の決定にあたっては、公正な議論で道理にかなった結論を導かなければならない」ということになります。
ここで注意しなければならないのは、第1条、第17条は討論、議論の効用を重視しているということです。逆に言えば、議論を有耶無耶にして表面上の一致を求める「空気の支配」「同調圧力」を戒めているということもできます。

「和を以て貴しとなす」という言葉は、自由闊達な議論を封じ、長いものに巻かれろ式の「空気の支配」を助長するような使い方をされがちですが、それは聖徳太子の真意とは全く逆ということになります。聖徳太子は道理にかなった結論を得るためには公正な議論が不可欠だと考えていたのです。どんなに優れた人物だとしても、完全無欠ということはあり得ないとわかっていたのです。

第10条

第10条には議論する上での心構えが書かれています。

「忿を絶ち瞋を棄て人の違ふを怒らざれ…。」
現代語では「人が自分の意見と違うからと言って怒ってはならない。人には皆心があり、心があればそれぞれ正しいと思う考えがある。自分は聖人ではないし、相手は愚人でもない。ともに凡人なのである。それゆえ相手が怒ったら省みて自分の過失を恐れよ。」ということです。

人は他人と意見が食い違うと自分は正しいことを言っている「聖人」で、相手は間違えたことを言っている「愚人」だと思いがちですが、聖徳太子は「ともに凡人に過ぎない」と言っているのです。
これをを踏まえて聖徳太子は「公正な議論が不可欠である。公正な議論のためには党派、派閥的なこだわりをなくさなければならない」とされたのです。

第15条

そして第15条には、「党派、派閥的なこだわりをなくすためにはどうすればいいのか。」「公正な議論によって道理にかなう結論を得る目的は何なのか。」について書かれています。

「私に背き公に向くは是れ臣の道なり…。」
現代語で「私(わたくし)の利益に背いて公(おおやけ;公共利益)のために尽くすのが臣下のと勤めである。私心があれば必ず自他に恨みの感情が生まれる。恨みがあれば心からの協調はできない。協調がなければ結局、私的な事情で公務の遂行を妨げることになる。つまり公共の利益こそその目的ということになる。」とあり、私心を捨てることがこだわりをなくすことにつながり、公共の利益が公正な議論をする目的であると述べられています。

まとめ

まとめると「完全無欠にほど遠い人間が公共の利益を実現するためには、派閥的なこだわりを捨てて公正な議論をしなければならず、そのためには各自が私心を捨てなければならない。」ということになります。
これが「和を以て貴しとなす」の真意と言えるでしょう。
私たちも謙虚に耳を傾けるべき貴重な教訓ではないでしょうか。議論はこの教訓を共有した上で行いたいものです。